


旅人の姿のオーディン
放浪する主神の姿で、旅と使者の神ヘルメス(ギリシャ神話)的な性格と重ねて語られる代表的イメージ。
出典:『Oden som vandringsman, 1886 (Odin, the Wanderer)』-Photo by Georg von Rosen/Wikimedia Commons Public domain
神話のなかには「旅をする神」「境界を越える神」という、ちょっと異質で、どこか軽やかな存在が登場しますよね。
ギリシャ神話におけるヘルメスはまさにその代表格。神々の伝令にして商人や旅人、盗賊たちの守護神として、すばしっこく動き回る姿で知られています。
一方、北欧神話の神々のなかで「旅」「知恵」「境界」を象徴するのが、他でもないオーディンです。
主神でありながら、知を求めて世界を渡り歩くその姿は、実はヘルメスと通じる部分もあるのです。
王でありながら放浪者である──そんなオーディンの姿に、ギリシャの俊足神・ヘルメスの影を重ねてみたら…?
というわけで本節では、「北欧神話のヘルメスとは?」というテーマから、ヘルメスの特徴・オーディンとの共通点・そして両者の違いをじっくりと探っていきます!
|
|
|
ギリシャ神話におけるヘルメスは、ゼウスと女神マイアの子として生まれた伝令の神・旅人の神です。
彼は神々の使者として世界を飛び回り、冥界へと死者の魂を導く役目(※サイコポンプ)も担っていました。
そのほかにも、商業、盗み、雄弁、競技など、「境界を越える」ことに関わるあらゆる分野で力を発揮するのが特徴です。
ヘルメスは生まれたその日から牛を盗み、神々を驚かせるなど、とにかく行動が速く、知恵に長けた存在です。
ただし、その奔放さは無秩序ではなく、世界の秩序の“すきま”に入り込むことで調和をもたらす不思議な神格でもあります。
軽やかで狡猾、だけど憎めない──それがヘルメスの魅力です。
北欧神話においてオーディンは主神でありながら、世界の真理や知識を求めて旅を続ける「放浪する神」でもあります。
彼はしばしば老いた旅人の姿に身をやつし、各地を訪れては詩や魔術、未来の知識を探し求める。
この「歩き回る神」としての側面が、俊敏に世界を行き来するヘルメスと響き合うポイントです。
オーディンもまた、死者の国ヘルヘイムに視線を向けたり、ルーンの力を得るため世界樹に自らを捧げたりと、あらゆる“境界”を越える存在です。
それは、単に「旅をする」のではなく、この世とあの世、神々と人間、過去と未来をつなぐ存在として、極めて象徴的な役割を果たしています。
ヘルメスの「境界の神」としての在り方と、オーディンの「全てを知ろうとする者としての越境」は、まさに通じるものがありますね。
ただし、ヘルメスとオーディンの決定的な違いは、その旅が背負う“意味の重さ”にあるといえるでしょう。
ヘルメスは、神々の伝令として自由に動き、時にいたずらを交えながらも、世界の秩序にスッと入り込む「調停者」のような存在です。
それに対して、オーディンの旅はもっと深刻で、知を得るための苦痛と犠牲を伴うもの。
オーディンは知識を得るために片目を代償としてミーミルの泉をのぞき、さらには世界樹ユグドラシルに自らを9日間吊るすという、過酷な行為まで行っています。
この姿は、軽やかで自由なヘルメスとは対照的で、「知とは、痛みと引き換えに得るものだ」という思想が色濃くにじんでいるのです。
つまり、ヘルメスが「境界を自由に行き来する者」なら、オーディンは「境界の意味を知ろうとして傷つく者」。
両者ともに“動く神”ですが、その旅が象徴するものはまったく異なると言えるでしょう。
北欧神話の重厚な世界観と、ギリシャ神話の流れるような自由さ。
ふたりの旅人神を比べてみると、それぞれの神話が描く「知」や「越境」の意味がくっきりと浮かび上がってきますね。
🪶オーディンの格言🪶
わしは玉座に留まりし王にあらず──杖をつきて彷徨う放浪者でもある。
知を得るためならば、命すら賭ける。それがわしの“旅”の意味じゃ。
「境界を越える者こそ、真理の風に触れられる」。
ヘルメスもまた、神々と人間、此岸と彼岸を渡る風の神であろう。
だがわしは、その風の果てに“死”を見据え、なお足を止めぬ。
目を捨て、命を吊るし、ルーンを引き寄せたこの身こそ、答えを渇望する者の姿なのじゃ。
わしの旅は終わらぬ──世界の裏に隠された言葉を、すべて拾い集めるその日までな。
|
|
|
